帰ってきた、水池屋無呂具堂。

アクセスカウンタ

help RSS 映画「マイマイ新子と千年の魔法」を見てきました。

<<   作成日時 : 2009/12/17 00:40   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 5

 
画像



 「アルプスの少女ハイジ」を見て、とても印象的な山のシーンが二つありまして、一つは初めてハイジが山の上の牧場まで行った時に見た山、もう一つはハイジがフランクフルトから帰ってきて、また初めて牧場に行った日に見た、湖の向こうにある山。
 その二つのシーンを見た時に、凄く不思議な感じがしました、紙に描いた一枚の絵がどうしてこんな風に見えるんだろう?と。
 「こんな風に」と曖昧に書きましたが、実際はどんな風に感じたのか?うーん・・・・・・そうだなあ、自分の中でそういう「風景を見た記憶」になったというかなんというか、ちょっと曖昧すぎますかね?
 ただ、それが「カメラで写した絵なんだな」と感じる以上の物だと自分が思ったのは確かです。
 アニメって不思議だなあと思うのが、「絵が動くのがアニメなんだ」としたら、この二つのシーンは動かない絵しか写ってないシーンなんですよね。
 でも不思議な事に、絵自体が動いているわけじゃなくっても、多分そのカットは「アニメ」なんですよね。
 例えば、その前後を取っ払っちゃって、その絵だけをカメラでゆっくり撮影していく、そうするとそれはもう「アニメ」じゃない、絵を写している「映像」じゃないですか。
 だから、「これはアニメだ」っていう感覚というのは不思議な物だなあと思います。
 「動いている所」にも「動いていない所」にも潜んでいる、不思議な感覚ですよね。
 もちろん、そこにはアニメ特有の撮影技術の存在というものもあって、それも無関係ではないと思います。
 ただ、ハイジで言えば、動く絵があって、物語があって、そこにいる登場人物たちがそれまでに積み重ねてきた時間があって始めて、そこに一枚の景色を描いた絵が画面に映った時に、例えそれが動かない絵だとしても「アニメ」になる瞬間がある、
 面白いなあと思います。
 えーっと・・・・・・これってハイジじゃなくって、マイマイ新子の感想じゃないですっけ?(笑)
 すいません、でもですね、自分は「マイマイ新子と千年の魔法」を見た時にすごく「アルプスの少女ハイジ」の事を思い出したんです。
 そしてもう一つ、自分が思い出した記憶があって、少々個人的なお話になって申し訳ないんですが、自分の父親の事を思い出しました。
 自分の父親というのは、まああまり良い父親だったとは言えない様な人間でして、亡くなってもう何年か経つのですが、生きている間も亡くなってからも良い記憶というのは正直言ってあんまり無いんですよねえ。
 マイマイ新子のの監督の「片淵須直」さんが「マイマイ新子と千年の魔法」のもう一つの原作としてtwitterであげられていた「光抱く友よ」という短編がありまして、映画を見た後に読んでみたんですが、この小説の中に登場する、松尾という女の子みたいな気まずい思いを、父親の生前に何度も抱かされた事があったよなあと身につまされましたね(笑)
 まあ、自分の父親はそんな感じだったわけですが、その父親の生まれ故郷と言うのがこの映画の舞台でもある山口県なんですよね。
 一度だけ、ずいぶんと小さい子供の頃に行った記憶があるんですが、山があって海があって・・・・・・それだけ、という何も無い所だなあという印象でした。
 まさにこの映画の舞台になっているような場所だったと思います、実際に地理的に近いかどうかは分かりません、年代的にもこの映画に出てくる子供たちというのは自分の父親の年齢に近い世代だと思います、これも実際に自分の父親がいつ生まれの、何歳だったのかは知りませんが。
 そんな感じの不肖な息子の自分なわけですが、この映画を見た時に、その風景が今自分が住んでいる景色に近いなあと思いました。
 映画公開前まで見ていたメイキングブログで(映画公開からの文はまとめてみようと思っていたんですが、アニメスタイルの方はついついみちゃってました(苦笑))、麦畑のロケーションハンティングに行ったのが埼玉県だというのは事前に知っていて、家の地元の風景みたいだな、とブログの写真を見ていて元々思っていたのですが、それが映画の中で山口県の風景として出てくるのはとても不思議な感じがしました。
 自分が今すんでいる所には小学四年生の頃に引っ越した来たのですが、初めてこの土地に訪れたのは小学三年生の時、ちょうどこの映画の主人公達と同い年の頃ですか。
 まだ家を建てる前で、その時はその場所には、小さな畑がありました。
 その時の印象は何にも無い所に来ちゃったなあ、とかそれ位しか思いませんでしたが、草ぼうぼうの地面の中に小さな鳥の巣と中には雛がいて、空の上をグルグル回りながら、親鳥が鳴いていたのを覚えています。
 この映画の最初の方でも現代(っていうのは変ですかね?)と千年前で鳥のさえずりでつながっているシーンがありましたが。
 それを見ていて、ふとこの映画の中で自分の中にある二つの故郷の風景がつながったような気がしました。
 映画の終盤でとある登場人物が「今、子供の頃の父ちゃんがこの前の道を走っていった」というような台詞を言うシーンがあるんですが、自分にとっては本当にそういう気分になった映画でした。
 大層個人的な話で申し訳ないんですが、この映画を見た事は、生まれて初めて自分の父親の事を身近な人間として感じられた瞬間かも知れません、新子みたいに千年前の世界を想像することはできなかった自分ですが、この映画を見て何十年と何百kmの距離は飛び超えられたみたいですね、ちょっと涙が出ちゃいましたよ。
 作画マニア的にはどうみたかーというと、この映画には色々な質感の絵が出てくるんですけど、それが面白かったですね。
 人物の細かい色指定、背景画との親和性など凄く繊細な画面になっていたと思います。
 人物の色が凄く細かいんですよね、足の裏だけ色がちがったりとか、汚れている所とかも細かく色分けされていて、おおーとか思いながら見てました。
 ウィスキーボンボンを食べちゃう辺りで、お母さんが家のなかに入ってくる所のお母さんの足だけが写っている所があるんですけど、逆光を意識した感じの色彩設定で、なんか肌のはりとか小麦色に焼けた感じの照りとか見えるようで何だか色っぽいアニメだなと、足を印象的に描く場面の多い作品だったので、なんかなりげなく兄フェチなアニメだなあとか(笑)
 ちょっと話変わりますけど、あのお母さん可愛いですよね(笑)
 アニメスタイルでの記事を見ていると、画面ごとに細かく質感を意識した処理が考えられていて、作画に興味のある人には、そういう映像自体の手触りを楽しめられるアニメだと思います。
 デジタル制作の作品なんですけど、やっぱりアニメって手作りなんだなと感じますね。
 それから音、これは凄く印象的でした。
 音楽も良かったんですけど、効果音が良かったんですよね。
 画面の中に見えない部分まで、色んな音がしていて、風景って景色やそこにいる人だけじゃなくって、「音」や「匂い」もその風景を印象付ける物の一つじゃないですか。
 だから、夜中の田んぼでカエルが合唱しているのなんて聞くと「ああ、田舎っぽい音だよなあ」なんて思えて良かったですね。
 この作品の画面を見ていると、「アニメ」の画面としてひとつの「風景」をどう作り上げるか?と言う部分に力が注がれていて面白いんですよね、手作りとさっき言いましたけどそういう血肉の通った物を感じられるような気がしました。
 それが絵だけでもなく、音だけでもなく、例えば背景だけが写っているように見える場面でも、さりげなく動いている生き物や植物が色々とあったり、そこに見えない物まで音としてそこに出すことで、それが一つの風景としてまとまった印象のものになる、そういう感覚が面白かったです。
 良い映画なので、まだ足を運んでおられない方には公開している劇場まで足を運んで、観に行って欲しいですね。
 自分もかなり遠くの映画館まで見に行きました、という事でここまでは未見の方に対する自分なりの映画の感想でした、以下からは映画を見た方に対する自分なりの感想を書いていきたいと思います。












 個人的になんですが、「マイマイ新子と千年の魔法」は「点」と「線」の映画だと思いました。
 新子が線で紀伊子が点、そして受け手の自分自身も点のような気がします。
 いきなり飛んだ話ですね、分かりにくい!と言うことで見ていて自分が思ったことを色々と書き連ねてみようと思います。


 
 まず最初に、新子の想像力する世界が、知識から構成されているのが気になったんですよね。
 元々はおじいいちゃんの一言から「千年前の世界」を想像するじゃないですか、おじいいさんはそれを実際に研究している人から確認して、後々新子も「千年前の世界」を研究している人に確認をしますよね。
 新子の「想像する物」って色んな質感やきっかけでふくらんだものだと思うんですけど、一番最初のクレヨンか色鉛筆的な子供の落書きが麦畑の中に現れて、どんどん千年前の世界が目の前に広がっていくカット。
 子どもが現実の風景をキャンバスにして空想を広げていくような場面ですけど、それを見ていて、空想の世界も最初は新子が手にできる画材から出来上がっているんだなあと思ったんですよね。
 河口があって船が行き来していたという空想の風景も後で出てくるように、自分の家が船のように見えるでしょ?という問いかけとつながっていると思うんです。
 色鉛筆は、紀伊子の初登場の場面で出てきましたけど、それが何となく象徴的に使われているような気がしました、なんとなくですけどね。
 そういえば、その学校の最初のシーンを見た時に、ちょっと不思議だったんですけど、紀伊子は転校生だけど、転校してきたところから始まるんじゃなくって、もう転校はしてきているという前提があって話が進んでいますよね、
 この作品ってそういうところが多くって、出会いみたいな最初の部分が「特別な物」として描かれていないのがちょっと変わったアニメだなと思いました。
 アニメって往々にして、特別な体験を共有する人とは、特別な出会いをしたりするものじゃないですか。
 でも、この作品では特別な出会いも、特別な体験の共有もあるようで無いような気がするんですよね、少なくとも主人公の新子と紀伊子の二人には同じ時と場所で描かれる出会いと別れが見えてこないような気がします。
 そういういわゆる額縁的なドラマチックな関係っていうのが見えない不思議な作品だなあと自分は思いました。
 だから、別れもドラマチックじゃない、「マイマイ新子と千年の魔法」という映画は、出会いや別れを描くための作品じゃないのかもしれない、と思いました。
 それで、新子を「線」、紀伊子は「点」と先程言い表しましたけど、印象的だったのが、新子が走る場面はいっぱいあるけど、紀伊子が走っているのは新子に手をつながれて走っている所くらいしか無かったと思うんですが・・・・・・
 それは、凄く印象的でしたね。
 紀伊子が誰かに手を引っ張られて初めて走れる子なんだなというのが。 
 二人のことを「点」と「線」で分けましたけど、「点」というよりは「点線」なのかなあ、そこをおっかなびっくり歩いているのが紀伊子なんですよね、自分の印象だと、だから走れないというか、なんというか・・・・・・ 
 だからラストで紀伊子が手をふっているのって、凄く当たり前のことなんですけど、重要なことだと思うんですよね。
 あたりまえにどうつながれるのか、という事が。
 映画の途中までは紀伊子は新子に多少なりと依存しているような部分があったと思いますし。
 おっかなびっくり歩いている、というのは映画の最初の方で実際に有りましたよね、道の向こうから牛車が来ると新子が言う所で、新子は「見えているから」普通に走ってよけられるんだけど、紀伊子は「見えないから」おどおどしながら避けると言うか。
 ここ、牛車が絵巻物みたいな質感で出てきますけどこれって原作を読んでわかったことなんですけど、新子の家は歴史のあるこの地域の元地主なので、こういった絵巻物のような先祖の遺産を持っているという設定が裏付けとしてあるんですね。
 だから、これも新子が知識として知っていることが、現実と「地つなぎ」になっているっていう描写に見えるんですよね。
 その道の向こうに千年前を想像出来る新子は、今の時間から過去や未来がつながっていることを理解出来る人間なんだと思います。
 それでいうと紀伊子がお母さんの事が分からない、思い出せない、と言う感覚は人とのつながりや自分のルーツが分からない、ちょっと決め付けかもしれませんが、自分がどうなっていくのかが分からないと言うことなのかな、と思います。
 だから、映画の途中までの紀伊子がお母さんの持ち物を色々と持ち出す行為って言うのは、お母さんを思い出せないことを物理的な物で埋めているという感覚なのかなと思うんですよね、周囲をお母さんの持ち物で埋めていっているようなところがあると思うんですよね。
 でも、それはお母さんの死んだ事、っていうのを受け入れられていないとか、お母さんの存在を想像出来ていないと言うことなんですよね。
 今、そこに存在しない事を実感することが出来るとしたら、想像することだけなんですけど、それができない。
 それが新子と紀伊子の千年前の世界との関わり方の違いなのかなあ?と思うんですが。
 だから、紀伊子が過去のお母さんの死を想像できない事、つまり紀伊子が身近な死を想像できない事の結果が、「お母さんの香水」で金魚を死なせてしまう事につながっているんじゃないかな、と。
 というのも、この映画にはいくつかの「別れ」があって、というか殆どの場合は、それは「死別」なんですよね。
 
 1「紀伊子とお母さんとの別れ」
 2「ひづる先生との別れ」
 3「金魚の「ひづる」との別れ」
 4「タツヨシの父親との別れ」
 5「新子の別れの手紙」
 6「タツヨシとの別れ」
 7「新子のおじいさんとの別れ」
 8「新子の引越し」
 
 と言うのがあるとおもうんですけど、1は実際には描かれないですよね、2は新子とひづる先生が直接別れ話をする処で紀伊子は出て来ないし、3の金魚は死んだ所は出て来ないで、死んだ後に出てきます、そこにも新子と紀伊子は同時には居合わせていない形になっているのかなと思います。
 4は言葉として出てくるだけで、誰も体験していない事ですね。
 5は新子は紀伊子から隠れて、手紙だけ送るんですよね。
 6も新子しか体験していないことで、その後の言及も無いですよね。
 7もあれだけおじいいちゃん子だった新子だった割には、言葉として出てくるだけで、実際に描かれたのって実は引越していく新子とそこに残った紀伊子の別れだけなんですよね。
 この別れの中で、新子と紀伊子が共通して体験している所が描かれるているのって、多分8だけなんじゃないかなあ。
 5も一方的なもので紀伊子は、意味を理解出来ていないんですよね。
 だから、「別れ」っていうのはこの作品の中では、本筋じゃないというかそこが一番大切な物じゃないんじゃないかなあと。
 で、新子と紀伊子には「出会い」も実は描かれていない、だから上でいったようにこの映画の中で重要なのは「出会い」と「別れ」意外の「何か」、なんだろうなあと思いました。
 そもそも不思議なのが、金魚の「ひづる」が死んだ時に、紀伊子の事を誰も責めずに、受け入れるんですけど。
 金魚が生き返るかもしれないと信じるという、矛盾を持っていますよね。
 そこに来て、タツヨシのお父さんが亡くなると言う事件が起きて、それに対して色んな人達が自分の立場からそれを想像するんですよね、誰もタツヨシのお父さんのなくなった所は見ていないので。
 例えば、お母さんは人の親として想像するんですよね、「そういう年頃の子どもがいる人なのよねえ」と。
 港町のクラブの大人たちは、タツヨシのお父さんの死を受け入れているかどうか、どうかというと、これはよく分からないんですけどね。
 それよりも、タツヨシに知らなかったお父さんの事を伝える役目の方が大きいんじゃないかなあ。
 タツヨシが自分の知らなかった、お父さんの子供の頃の思い出を聞いて、そこから想像するんですよね、子供の頃のお父さんの事を。
 一方その頃、紀伊子も子供の頃のお母さんの写真がきっかけになって、千年前の世界を実感している。
 タツヨシも紀伊子も「別れ」が想像のきっかけになっているんですよね。
 紀伊子は今一番心を寄せている、新子から唐突に一方的な別れを切り出されて、初めて心の中で新子の事を「思う」と言う事なのかなあ。
 誰かを思う心、・・・・・・誰かを思いやる事で初めて、紀伊子の想像する心が生まれる、その想像が「千年前の世界」を自分の中で創り上げていく、創造につながっているんじゃないかと思うんですよね。
 だから、その思いやる心というものが、千年前の世界で諾子とつながった、紀伊子が千古の家族のことを同情や哀れみでもなく、思いやるという千古に対しての接し方につながっていっているんじゃないかな、と思いました。
 だから紀伊子は最後に、笑顔で新子に別れを告げられるんですよね、お母さんの持ち物で自分を囲ん出いた時とは違って、そばにいなくても、新子の事を思いやれるから。
 なんて思いました。
 この紀伊子にマイマイがついて「千年前の世界」の諾子としてその世界の人間になるというシーン、凄く面白いなあと思ったのが、紀伊子がベッドの上に寝そべりながらつぶやく言葉と、そこに映る映像という物の取留めの無い感じが凄くいいなあと重いました。
 この映画の中にバラバラに散りばめられた 時間も 場所も 過去も未来もバラバラな言葉が紀伊子という女の子の中で一つにつながっていく瞬間を見ている気がして。
 その一つ一つはバラバラだった言葉が、一人の人間の中でつながることによって、意味のある文章になるように、その人が持っているバラバラな気持ちや思いや知識や体験が連想していって一つにつながる想像を生む瞬間を見ているんだなあ、なんて思いました。
 点が線になった瞬間ですよね、ポツンポツンとそこかしこに散りばめられた点が、意味のある形として結びつながれた形、それが紀伊子の「千年前の世界」なんじゃないかなあと。
 この映画を見ていて、言葉って言う物の中には、例えば色も音もあって、時間もある。
 その言葉からなにかを想像するきっかけにもなるし。
 言葉から生まれるのは文字の意味だけではなくって、その人が積み重ねてきた物が映り込んだ形になるもんなんだなあと思いました。
 この映画は原作とはぜんぜん違う作品になっているんですけど、それが自体が凄く魅力的な物だと自分は思いました。
 メイキングブログ等々を読んでいて、片渕さんがこの作品を作るにあたって、小説をそのままアニメ化するのではなく、独自の解釈を持って、片渕版「マイマイ新子」を作っていった過程等を読んで、勝手に思ったことなのですが、その試行錯誤自体がこの映画に似ているような気がしました。
 その試行錯誤の結果が、この映画独自に創造した千年前の女の子の諾子何じゃないかなあと思います。
 何かのインタビューで前に細田守さんが「映画製作と映画は似る」見たいな事を言ってたいんですけど、「マイマイ新子と千年の魔法」を見ていると、本当にそうなのかもなあと思ったりしました。
 知識や想像があって、ゼロから創造の世界を創り上げていく行為自体が、この映画の千年前の世界の存在そのものみたいじゃないですか。
 受け手である自分にとっても、この映画ってちょっと複雑で、受け手にしか見えていない、演出みたいなものもあるじゃないですか。
 例えばモンシロチョウ(でいいのかな?)が、映画の最初のところで新子や紀伊子の後ろを過ぎったり、最後の方の夜道でも、さり気なくタツヨシと新子(だったと思うんだけど)の後ろを過ぎってたりとか、していますよね、なんとなく「予感」をかんじさせるような使われ方だなあとか思いました。
 タツヨシがいつも帽子をかぶってうつむいている理由も、バー・カリフォルニアでタツヨシが父親の話をするところで初めてチラッとだけ帽子のツバで隠れていた所に傷があって、タツヨシは父親に暴力を振るわれていたのかもしれない、とこれもさりげなく描写されていて、答えは受け手自身が想像しないといけないんですよね。
 新子や紀伊子のような映画の中の登場人物たち、この映画を作った人達、それどころかそれを見ている受け手自身もこの映画の中に映っている物から、想像をしないといけない、自分にはそういう映画のような気がしました。
 この映画を観た体験って、受け手の自分たちの中にあるバラバラな点をこの映画を通してつなげていく過程だったんじゃないかなあなんて思ったりします。
 自分で言えば、父親の故郷や、今自分が住んでいる風景、「アルプスの少女ハイジ」を思い出したり、人によっては「となりのトトロ」を思い出した人なんかもいたみたいですね。
 それって、やっぱりその人が生きて来た時間が重なって見えているという事だと思うんですよね。
 この映画を見て、見たことも無い風景を「懐かしい」なんて、思ったりするような感覚がちょっとわかったような気がします。
 誰かに創造された、それがたとえ「作り事」であっても、それを受け取った人が何かに照らし合わせて、新たな想像を生むことで、特別なもの、実感出来る存在に変わっていくんでしょうね。
 そういう物が何かの形でつながる事で、見たことの無い景色でも、
「懐かしい」と思える瞬間があるんじゃないかなあ。
 この映画は、自分にとってはそういう作り事だけで創造されている、アニメっていう表現そのものについて、改めてその面白さを感じさせてくれる作品でした。
 それから、この作品を見て、意外だったのが片渕さんの演出作品の中でも意外な印象を持っていた、「ブラックラグーン」の感覚というものがちゃんと入っていた事で、他にも「千年前の世界」っていうキーワード自体が「アリーテ姫」を思い起こさせる、なあと思いました。
 まだ見ていない人がいるかも知れないので詳細は省きますが、この作品で片渕須直監督に興味を持たれた方には、「アリーテ姫」と「ブラックラグーン」をすすめたいですね、それから「名犬ラッシー」も。
 タツヨシの扱いに関しては、現代的な感覚だなというのも感じていて、それに対する、新子の別れの言葉っていうのは、今の難しい子供の立場に対する、この作品なりの回答なのかなと思います。
 お父さんの遺伝子の話も含めて、ですね。
 子供はいつか大人になるけど、大人も昔は子供で、成長していくことで変化する、この二つの存在は二項対立の問題じゃあなくって、時間としてつながっているんですよね。
 子供の向こうに大人がいて、大人の向こうにも子どもがいて、新子は過去の世界を想像出来るように、未来の世界も想像することが出来ているのかもしれないですね。
 今生きていることが、明日の自分につながっている、事をじっかんしているんじゃないかなあ、だから「明日の約束」が新子にとってきっと大切なものなんですよね。
 生きることも死ぬことも大きな時間の中でつながっているからこそ、なくなった人間を身近に感じられる心がある。
 映画のラストで、新子と紀伊子がおじいいちゃんに色々なことを教えてもらっている様子とその別れがあったというダイジェストが有りますけど、この一連のシーンはタツヨシと新子が大人の世界に、それに紀伊子が「千年前の世界」へ行くという冒険から、現実の生活に軟着陸している、感覚だなあと思いました。
 観客にとっても、軟着陸的な感覚の映像かな、と思います。
 事件ではなく、生活として積み重ねられる時間こそがこの映画の重要な何かだからこそ、現実に軟着陸していく、この一連のシーンは必要なのかもしれないですね。
 でもまあ、軟着陸と行っても、凄くこのアニメに自分は引き寄せられちゃっていのたので、不思議な体験をした感覚でしたよ。
 映画館に一人ぼっちで、見ていたので・・・・・・公開前に映画館の係員の人が上映の挨拶に来たんですけど、もう目と目があって、心まで通じ合っていたと思いますね・・・・・・「気まずい」、と(笑)
 見終わった後に、嘘みたいに静かな劇場をふりかえって、「ほんとに帰ってきたのかな?」と不安になる位でしたからね。
 「帰ってきたのかな?」と思って、改めて変なことを考えた、と思いました。
 行ってもいないのに、どこから帰ってきたんだ?と。
 まあ、映画館には来ていますけどね、遠かったなあ〜、10駅以上離れてましたから。
 でも、それでふと思ったんですよね、そうかこの映画自体が自分にとっての、思いでの一つになったんだなあ、と。
 この作品を見る人は、皆見る前から、タイトルになっている、「魔法」について不思議に思うんじゃあないかと思うんですが。
 見合わった頃には「魔法」について不思議じゃなくなっていそうですよね。
 それ自体がとても不思議な事ですけど。
 そういうアニメだと思います、「マイマイ新子と千年の魔法」良いアニメでした。
 

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
この世の中には、子供の世界と大人の世界があって、あえてこの作品では、子供の世界から踏み出さないようにセーブしていたような気がします。大人の生々しい世界は噂話程度で止めてね。大人が足だけで出番が多かったのも、そのせいかも。
だからこそ、最後にちょっと大人の世界を知ることで、主人公が成長するのでしょうね。

自分がこの作品を好きなのは、子供ならではの未知なるものへの好奇心があって、発見したり体験する瞬間が描かれているところでした。
その作画による演技がとにかく素敵で、けして言葉には頼らない潔さもまた、凄いなぁ、と。だからこそ、観る人によって、それに対する感じ方は様々なんだろうな。
案外、綿密なる風景美術も、感情表現のリアリティーレベルを高めるための小道具にしか過ぎないのかも、とさえ思うほどでした。
変な話、自分はそれを、観察するような気持ちで眺めていたのかも。子供を観ていたら、いつまでも飽きないような感じでね。

その反面、人との出会いに関しては、ドライな一面があるというのが、面白いですよね。転校生に対しても、どうしてそんなことで怒るんだろう、という好奇心だけで興味を持っている。その興味も、道中では犬であったり植物であったりに、移ってしまう。
原作が自伝小説みたいなものだから、実際の作者がそういう人なのかもしれませんね。

余談ですが、「アリーテ姫」を観た元・ヒキコモリのスタッフが、これじゃひとりでも生きていけると思ってしまいます!という発言がきっかけで、ふたりのオンナノコにスポットライトを当てるような作風に変えたそうです(実際、原作には、紀伊子があまり出てこない)。
それがなければ、より、ドライさが増していたかも、なんて思ったりして。
ドナドナNo.5
2009/12/17 08:20
ドナドナNo.5さん、コメントありがとうございます。

原作を読むと、この作品の印象ってまた変わりますよね、それがまた面白いなあと思わせてくれる作品だと思います。
その「アリーテ姫」のエピソードって面白いですよね、実は「アリーテ姫」と「マイマイ新子と千年の魔法」ってかなり似ていると思うんですけど、主人公が二人になっただけでずいぶんと描かれているものの印象が変わりますよね。
そういえば、ドナドナNo.5さんの大人の足だけが出てくるカットが多かったっていうのを聞いて思い出したんですけど、この映画では同じ道を大人と子どもが違う歩き方で歩くカットが多かったですよね、その中には想像の世界が大人と子供にとってどう違うかとか、動きで見せてくれてて面白かったですね。
水池屋
2009/12/17 22:46
おひさしぶりです。のかなです。
感想書かれたお知らせ、ありがとうございました!
今日になって、やっと感想拝見できました。

ハイジ思いだされたお話に反応してみたり…そうですか!
ハイジもまたちゃんと見なおしたいです。
映像に入り込む感覚と言うのも色々あると思うのですが
それについても凄く興味深かったです。

私はマイマイ新子を見てから、アリーテ姫を見たのですが
マイマイ新子よりもっと作品に入り込んで行ける感覚があって
(たぶん逆の順序でみたら、また感想が違ったと思うのですが)
凄く感動したというか、ラッキーした気分になりました。

誰かの言葉を借りる形になってしまいますが
アニメは「体験」だというのが、とてもよく分かるというか。
水池屋さんの、感想拝見してても思ったのですが。
自分の今までの体験や記憶とからんで
その時その時で違うものに見えるなと。
やっぱりアニメって面白いなと、ほんとに思います。

画面のこともたくさん書かれてて!笑
私は見ててあれもこれもすげえ…すごい!
と思いつつ、ここまでたくさん覚えられて&見られていないので
早くソフトでないかなあと…そわそわしてきました。笑
何度見てもきっと発見がありますよね。

片渕監督をはじめ、ほんとにたくさんの方が
凄まじい手間をかけて作られた画面だと思いますので、
見る側としてももっと気をつけて見たいなと思います。
これはマイマイ新子に限ったお話でも、ないのですが。
のかな
2010/01/18 11:01
そしてやっぱり水池屋さんの感想、面白いです。
作品を見てないひとが見たら
きっと見たくなるんじゃないかな…と思います。
なのでもっと書かれると良いと、思います!
などと私も読むのがこんなに遅くなったのですが(笑)
勝手を申し上げてみます。

アニメを見るひとはなんというか、決まった層の人たちだなと
思うこともあるので
水池屋さんのような感想を書ける方は稀有だと思いますので
応援じゃないですが…もっとアニメ見る人も、感想書く人も
作る人も増えてほしいなと思うので…
ぜひ。もしよければ宜しくお願いします。

長々と拙いコメントを失礼しました。
感想すっごく面白かったです!
またマイマイ新子見なおしてから、感想も拝見し直したいです。

※長すぎるといわれたので、2つに分けました。
すみませんです;失礼いたしました〜!
のかな
2010/01/18 11:02
 のかなさん、熱いコメントありがとうございます、それと昨日はメンテナンス中でしたので、コメントできませんでした。お返しが遅れましてすみません。
 マイマイ新子を見て、ハイジを思い出した理由については今現在ちまちまと書いておりますハイジの感想でちゃんと書くつもりなので、よろしければそちらもお読み頂けますとありがたいです。
 
>アニメは「体験」だというのが、とてもよく分かるというか。

 本当にそう思いますね、自分はアニメについて考えた事というよりも、アニメを見た時に自分が体験した印象を文章にして、それを読んだ人がそのアニメを追体験するとか、見るきっかけ見直すきっかけにでもなれば良いかなあと思っているので、そう言って頂けて大変嬉しいです、ありがとうございます。
 
>アニメを見るひとはなんというか、決まった層の人たちだなと思うこともあるので

 これは自分も大きく感じる所です、もう一つ思うのは「する話がきまっている」とか「話し方の種類が決まっている」という事も少し思う所があります。
 最近読んだ「氷川竜介」さんの本に「アニメと生きた人と同じように接して行けば良い」というような一文があって思ったんですが、古くても新しくてもアニメって見ている人にとっては「生き物」だと思うので、古いアニメを見るのにもいつも新鮮な気持ちで接して行きたいですね。
  
水池屋
2010/01/19 23:40

コメントする help

ニックネーム
本 文
映画「マイマイ新子と千年の魔法」を見てきました。 帰ってきた、水池屋無呂具堂。/BIGLOBEウェブリブログ
[ ]